【 日本の歴史物語 】

   天下を掴みかけた信長

    本能寺の変 不可解な謎
平成

「本能寺の変」本当の謎
叛逆者は二人いた

 「本能寺の変」のいくつもの謎
 信長一人の暗殺に13,000人?
 定説をくつがえす衝撃の書
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謎とき本能寺の変
 「本能寺の変」を企てたのは誰か?
 本能寺の変の「黒幕」は誰か?
 戦国時代最大の謎を解く
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本能寺の変 その不可解な謎

天正10年(1582年)6月2日に謀反を起こした明智光秀が、僅かの供回りで京都の本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させたクーデター事件。
あまりにも有名な 【本能寺の変】 だよね。
でもね、考えれば考える程、なぜ? って事が多い。

武田征伐後に、徳川家康を接待する事になり接待役になった明智光秀。
しかし、信長より接待役を途中で解任され、秀吉の援護を命令され、秀吉のもとに行く事になった。
以前より、信長に辛くあたられていた光秀は信長を恨んでいたが、これを気に怒りが爆発する。
ついには、本能寺に宿泊していた信長を襲い自刃させ、さらに、長男信忠も二条城にて自刃させた。

光秀謀反の知らせを受けた秀吉は、毛利との和平を取りまとめ、中国大返しを行う。
そして、光秀と秀吉は山崎で戦い、光秀は秀吉に敗れ逃走する事になる。
小栗栖(京都市伏見区)まで逃れた光秀だったが、最後は土民に討たれてしまう。

これが、一般的に知られている本能寺の変。
信長に恨みをもった光秀の単独犯行ってのが世間の定説になっている。

しか〜し、この本能寺の変には、不可解な事がいっぱいだ!
   なぜ、光秀は謀反を起したのだろう?
   なぜ、僅かの供回りで信長は本能寺にいたのだろう?
   妙覚寺にいた信忠を襲わなかったのはなぜだろう?
   焼け跡の本能寺から信長の遺体が出なかったのはなぜだろう?
   なぜ、秀吉の「中国大返し」は成し得たのだろう?
など、など、謎がいっぱい。

そもそも、光秀が謀反を起した理由は、怨恨とは限らない。

明智光秀の子孫であり、『 本能寺の変四二七年目の真実 』 の
著者、明智憲三郎さんの説には興味を魅かれた。
明智憲三郎さんの説を参考に、おっさんは次のように推測する。
(あくまでも個人的な見解です。 まっ、歴史物語だから良いかぁ)

信長は、家康が邪魔になってきた
天下統一目前の信長は、三河武士の団結力とその主君の家康存在が目障りになってきた。
だって、家康の家臣団って相当に強かったでしょ。
浅井・朝倉の連合軍と戦った姉川の合戦でも、家康軍がいたから勝てたようなもんだからね。
それに、日本最強と言われた武田軍も滅亡したし、鬼神と言われた上杉謙信も亡くなっていたしね。
織田軍より強い徳川軍は、天下統一後に目障りな存在になると信長は感じたんじゃないかなぁ〜?

そこで、信長は、家康を暗殺する事にしたんだ。
家康暗殺の命令を受けたのが明智光秀。 だから、彼は家康の接待役になった。
でも、家康も隙を見せなかったんだろうね、光秀はなかなか実行できない。
家康暗殺ができない光秀にイラだった信長は、満座の中で光秀を罵倒したいり足蹴にしたりしている。

光秀は、信長への恨みを募らせたわけじゃない
「信長を恨んでた」 ってのが定説だけど、以前から無茶を言ったり、罵倒したりしている信長でしょ。
いまさら、光秀が恨みを募らせる事も無かったと思うけどな。
それより、今まで真義に厚く信長のために働いた家康を殺す事が忍びなかったと思うよ。
光秀が思い悩むのは、ちょうど接待役を受ける直前ぐらいからでしょ。
家康暗殺の命令が、彼を思い悩ませていたんじゃない。

それに、明智憲三郎さんの説によると、信長は天下統一後は、中国に攻め込むつもりでいたらしい。
日本国内は息子達や身内に任せ、自分は中国を攻め取るつもりでいたらしいんだ。
秀吉や光秀などの家臣を前線に送りこむつもりだったんだ。
それが現実のものとなると、光秀も先行きが全く見えなくなるでしょ。

ついに光秀は、家康に内通する
家康は、安土城で接待を受けた後、大阪の境を見物するように信長から言われている。
しかも、境の帰りに本能寺に立ち寄るように言われているんだ。
光秀の方は、接待役を解任され軍備を整え、本能寺に立ち寄った家康を打ち取るように命令される。
そんな事前の打ち合わせでも無けりゃ、13,000人もの明智軍ですよ。
信長の襲撃が始まるまで、誰にも気づかれずに本能寺に近づける訳がないでしょ。

しかし、思い悩んだ末に、ついに光秀は家康へ暗殺の計画を内通するんだ。
家康も薄々は分かってたと思うけど、真実を知って驚いた事だろう。
で、それぞれが本能寺に行く時間をずらして、光秀は信長を打ち取った。

家康は楽々と三河に帰っている
定説では、本能寺の変を聞いた家康は、慌てふためき命からがら三河へ帰国した事になっている。
光秀から逃れ、土民や野党に狙われる中、生涯で一番の危機とされる “伊賀越え” を行った。
でもね、先祖の出身が伊賀である家臣の服部半蔵と境の商人の茶屋四郎次郎が、甲賀の地元の土豪と交渉し逆に守って貰っている。
200人もの忍者に守れら楽々帰って行ったんだ。

光秀は死んでいない
一方、山崎の合戦で敗れた光秀は、小栗栖まで逃れたが土民に討たれた。 って事になってる。
しかし、その後に検証された光秀の首も損傷が激しく、本当に光秀の首か分からなかったそうだ。
でも、一様これで、光秀は死んだ事になっている。

だけど、後に家康の参謀として 『南光坊天海』 なる人物が突如登場するんだ。
そして、秀吉が北条攻めを行った際には、家康陣の中にいたそうだ。

一様、陸奥国に生まれたとされているが、本当のところは分かっていない。
この南光坊天海、自分の出生を弟子にも語っていないんだ。
いくら高僧だったとしても、生い立ちも分からない人物を家康が側に置くだろうか?

つまり、 明智光秀 = 南光坊天海  って事になるんじゃない?
南光坊天海も 「実は光秀なんだ」 って事は、弟子達にも口が裂けても言えないでしょ。

比叡山松禅院にある石灯籠には、「慶長二十年二月十七日 奉寄進 願主光秀」 の記述がある。
光秀が死んだ。 と、されてから33年後の日付だ。
きっと、光秀に助けられた恩を家康が感じて、自分の参謀として使ってたんだよ。

初対面の南光坊天海に春日局は深々と頭を下げた
他にも、家康の孫である家光の乳母のお福。 ご存じ、春日局ね。
この人は、明智光秀の重臣斎藤利三の娘だった。
謀反を起こした家臣の娘が、なぜ三代将軍家光の乳母にまでなれたんだろう?
何てったって、謀反人の家臣の娘ですよ。

でもね、南光坊天海が光秀だったら謎は解けるでしょ。
家康は、明智光秀を謀反人なんて思っちゃいない。 逆に、命の恩人と思ってるんだから。
光秀の重臣斎藤利三の娘お福を孫の乳母として重用しても不思議じゃない。

それに、春日局と南光坊天海が、初めて出会った時。
春日局は、「お久しゅうございます」 と、天海へ深々と頭を下げたそうだ。
と、言う事は初対面じゃ無かったって事でしょ。
天海の推薦で乳母になれた。 って話もあるけど、光秀=天海 の方が展開としては面白い。

定説を作ったのは秀吉
明智憲三郎さんによると、本能寺の変から光秀の死までの定説を作ったのは秀吉だ。
秀吉は、一連の事件を後に、『惟任退治記』 として公表している。
これは、真実の記録というより、秀吉にとって都合の良い筋書きになっているそうだ。

怨恨による光秀の単独犯行。
この方が、秀吉にとって一連の行動の正当性があるからね。
家康を暗殺しようとした信長を自刃させた光秀。 その光秀を自分が殺しちゃ都合が悪いじゃん。
真実も時の権力者によって変えられる。 って事は歴史上よくある事だしね。

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明智光秀。 不思議な人です。
今までは、恨みに任せて後先も考えず主君信長を殺した謀反人。 って思ってました。
でも、家康にしてみれば命の恩人。 秀吉には、出世の糸口になった人。 なのです。

人々の日々の行動や思いが歴史を作ってきています。
おっさん達が信じてきた歴史上の出来事は、偏った見方をしてるのかもしれません。
真実とは違う歴史を学んでいるのかも・・・・。

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