京都を灰にしてしまった応仁の乱
ほんで、神様に選ばれたのは、義教だった。
この人、坊さんで結構偉かったんだけど、還俗して将軍になっちゃたわけ。
この義教、ある意味、義満よりスゴ腕の将軍なんだ。
官僚に取り仕切られていた政治の実権を取り戻して、将軍自ら政治を行ったり。
中断してた勘合貿易を再開したり、将軍直属の軍隊を作ったり。
守護大名の後継ぎにガンガン口出して、自分に都合の良い後継者だけ認めたりしたんだ。
京都から離れた関東にあって、調子に乗ってた『関東公方』も追い詰めて自殺させたし。
九州も平定してしまう。
政治に口出すやつは、公家でもお寺でも容赦ないって人だった。
だから、義教は、『天魔』とか『万人恐怖』とか呼ばれて恐れられていたんだよ。
何と、信長より早く、最澄の天台宗の総本山である比叡山の焼き討ちまで行ってるんだ。
でも、こんな強引な義教だから、やっぱり敵が多いよなぁ〜。
結局は、守護大名の『赤松満祐』に暗殺されちゃったんだ。
それで、7代目は、義教の息子で義勝が継いだんだけど、義勝はまだ9歳。
しかも、2年後に亡くなってしまう。
で、8代目は、義教の弟の義政になってしまったわけ。
で、この義政は、とんでもないヤロウだったんだ。
なんと、大変な熟女好きだ!
奥さんの『日野富子』には、全く興味ない状態。
こんなんじゃ、後継ぎも生まれないでしょ。
そこで、9代目の候補として、坊さんになってた義尋にお声がかかったのね。
義尋としては、ビックリさ!「えっ! 俺?! なんで?!」
「義政と日野富子の間に子供が産まれたらどうすんの? まずいでしょ?」って腰が引けちゃってね。
それでも、幕府の実力者『細川勝元』が、「大丈夫ですよ。 ちゃんと面倒みますから」って後押し。
「ほんとか?! なら、将軍になってみるか」って、還俗して義視と名乗り将軍候補になったんだ。
ところが、ところがだ、政治に興味が無い義政将軍、やっぱりダメダメだ。
なんと、ついに、義政のヤロウ、日野富子との間に義尚って、子供をつくっちまいやがった。
義視としたら、「えぇ〜〜!! お前、熟女好きだったんじゃないの?!!」って驚いた事だろう。
後は、お決まりの後継ぎ争い。
富子(義尚)・山名宗全VS細川勝元・義視。
他の守護大名も加わり、戦いになってしまった。
(山名宗全は邸宅を西側の本陣として、細川勝元・義視軍と戦った。だから、山名宗全の邸宅あたりが、『西陣』と名付けられた。) → (山名宗全の邸宅跡)
敵味方入れ替わったりして、もう泥沼状態。
これが、1467年に始まった『応仁の乱』。
この争い、その後11年間も続いちゃうんだ。
それに、戦場が京都ときてるでしょ。
建物や書物など、京都の多くの文化財が灰になってしまったんだ。
義政はっていうと、相変わらず政治に無関心で、邸宅造営や酒宴に溺れていったダメダメ将軍ね。
餓死者が賀茂川の流れを止める程の飢饉があり、応仁の乱があり、で庶民は大変だったんだけど・・・
それでも義政は、戦乱に対処する事もせず、酒宴や連歌の会ばっかり行ってたんだ。
(最悪の将軍だ!)
11年間も続いた応仁の乱もやっと終息し、京都の町も人の心も荒れ果てた状況だったのに・・・
義政は義満のマネして、東山に『銀閣寺』って別邸を建てたんだ。
富子とは、将軍後継ぎの事で不仲でしょ。
だから逃げるように、この東山へ移ってるんだ。
でも、この『銀閣寺』、なかなかの出来栄え。
金閣寺のような華やかさは無いが、落ち着きのある『書院造』でね、障子にふすま、床の間って、以後の日本家屋に大きな影響を与えてるんだよ。
専門家の中には、「『金閣寺』より『銀閣寺』の方が良い」って方も多らしい。
僕も、金閣より銀閣の方が好きだなぁ〜
でも、将軍がこんなんじゃ、室町幕府も力が弱くなる一方でしょ。
幕府の言う事も聞かず、各地の守護大名は勝手な事をするようになってきてね。
守護大名の家来の中からも、実力次第で伸し上がってくる者が出てきはじめたんだ。
「身分がなんだ! 実力で昇りつめてやる!」って、つわものも現れてきてたんだよ。
さあ、いよいよ本格的に『下剋上』の時代に突入だ。
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天魔の足利義教の強引な政治があり、義政のふがいない政治が始まる。
なんと、足利義政、後継ぎを決めづに仏門に入ってしまった。
権力の亡者による跡目争いは、京都と灰にする応仁の乱へと発展してしまった。
もう、幕府の言う事などきかない戦国武将の誕生だ。 >>> 身分なんて無視の下剋上
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