奈良の大仏さんで厄払い
そんな中、都に異変が次々と起こったんだ。
災害は起こるわ、天然痘は流行るわで、死人がいっぱい。
それもこれも、『長屋王の呪い』なんだ。
このころは、不可解な事や凶事に対して、悪霊や呪いなどのせいと思われていたのね。
気象の激変や体調不良、不慮の事故など、”たたりや呪い”って思われてた。
科学的な知識が乏しいからね。
安部清明で有名な『陰陽師』の地位が確立してくるのもこのころかな?
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そもそも、『聖武天皇』様が、『藤原不比等』の娘を奥さんにもらったのが事が始まり。
『藤原不比等』って、大化の改新で活躍した『中臣鎌足』の息子ね。
平城京を造るのにも活躍した人なんだよ。
で、藤原不比等は、聖武天皇様の奥さんになった娘をどうしても『皇后』にしたかった。
でも、皇族じゃないから、藤原不比等の娘は『皇后』になれない。
それでも藤原不比等は、ゴリ押ししてたわけ。
それを猛反対してたのが、聖武天皇様の変わりに政治をしていた『長屋王』だったんだ。
そんな時、聖武天皇様と奥さんの間に子供ができてね。
聖武天皇様も奥さんも藤原不比等も、そりゃぁ、大喜び。
でも、悲しい事にそのお子様は、1歳にもならないうちに亡くなってしまった。
そしたら、この藤原不比等、「長屋王が呪い殺した!」って騒ぎ出しちゃって・・・
無い事、無い事、言いふらして・・・
ついに、長屋王は、いたたまれず自殺しちゃたんだ。
これが、729年の『長屋王の変』
そこで、反対するものがいなくなった藤原不比等は、娘を『皇后』にしちゃう。
皇族でもないのに・・・
権力さえあれば何でもありって事だ。
ところが、ところが、その後、都に異変が起こり始めたんだ。
災害は起こるわ、天然痘が流行るわ、おまけに、藤原不比等の兄弟4人も次々と死んじゃって・・・
「こりゃぁ、長屋王の呪いだ!」って、朝廷は大慌てさ。
何回も遷都もしたんだよ。
結局、平城京に戻ってくるんだけどね。
それでも、災いは全然治まらない。
もう、朝廷もどうして良いのか分からない状態。
そんな時は、もう、神頼みしかないでしょ。
(実際は、仏様だよりなんだけど・・・)
だから、朝廷は、厄災のために全国に『国分寺』や『国分尼寺』を建てるように命令したんだ。
741年の事ね。
とどめは、『東大寺』
そう、そう、『奈良の大仏』さん。
だから、『奈良の大仏』さんは、災いを治めるてもらう為に作られた大仏様なんだ。
宝物を納めておく有名な『正倉院』もこの時に出来たんだよ。
『国分寺』や『東大寺』でも分かると思うけど、この頃の建物は、仏教や唐の影響が強い。
だって、『遣唐使』が、唐の文化を伝えてくれるからね。
この『遣唐使』、630年から894年まで、264年間も続いたんだ。
有名どころでは、『阿倍仲麻呂』が一番かな。
安倍さんは、スゲェー頭良かったから、唐の役人にまでなってしまった。
それと、忘れちゃならない人が、唐で偉いお坊さんだった『鑑真』さん。
日本からの留学生の依頼を受けて、日本にやってきたんだけどね。
でも、日本に来るまでが、そりゃぁ、大変だったねぇ〜
嵐にあったり、妨害にあったりして、なかなか日本に来れなかったんだ。
そんな苦労の連続で、ついには失明しちゃう。
それでも、何度も挑戦して、10年後に、やっと日本に来れたんだ。
そして、『鑑真』さんは、仏教だけでなく、建築や彫刻、薬の知識を教えてくれた。
奈良市に『唐招提寺』ってお寺があるんだけど、『鑑真』さんが建立したお寺なんだよ。
この頃の文化が、『天平文化』って、言われている。
まあ、分かると思うけど、仏教色の強い文化だ。
前も話したけど、『万葉集』って歌集があるでしょ。
この『万葉集』には、貴族や僧侶から庶民まで、身分に関係なく4,500もの歌が載ってる。
身分の上下に関係なく、一緒に掲載されてる本なんて世界でも珍しい事なんだよ。
それから、この頃に歴史の本が作られた。
『古事記』や『日本書紀』がそれね。
でも、『歴史』って言っても日本の歴史なんか書かれちゃいない。
天皇様の歴史が書かれてて、天皇様の正当性を証明するために作られた歴史書なんだ。
他にも地理の本として、『風土記』。
各地の文化や特産品、神話などが書かれているものなんだけどね。
有名どころでは、『出雲の風土記』かな。
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長屋王の呪いは、朝廷を震撼させた。
ついには、仏教にすがる事になる。 各地の国分寺や奈良の大仏は厄災を願ったものだ。
これで、仏教の影響は、ますます強くなっていった。
さあ、これから女子の好きな、きらびやかな平安の世に移っていく。 >>> 平安京ができた平安時代
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