天皇主権の大化の改新
活躍してた聖徳太子が、亡くなってしまった。
それで、聖徳太子が亡くなったとたんに蘇我氏が、また、威張りだしちゃったんだ。
聖徳太子の息子である『山背大兄王』と、その一族を抹殺しちまったくらいだからね。
でもね、「蘇我氏のヤロウを何とかしなきゃ」って思ってたのは、聖徳太子だけじゃなかった。
『中大兄皇子』と『中臣鎌足』も同じように考えていたんだ。
645年「朝鮮から挨拶に来た」とウソついて、『蘇我入鹿』を皇居に呼び出してね。
そこで、ついに中大兄皇子が、蘇我入鹿を暗殺しちゃった。
その後、中大兄皇子は、都を飛鳥から『難波』に移つして政治を行う事にしたんだ。
まあ、気分一新って事でしょうかね。
そこで、初めて『大化』って、年号ができたんだよ。
『昭和』とか『平成』とか言ってるやつね。
そして、天皇様は、『改新の詔』を宣言なされました。
内容は、こんなもん。
『公地公民』
「土地と国民は、天皇様のものだ! だから、庶民は天皇様のために働け!」って事。
(「そんなのひどい!」って・・・ いや、いや、当時はそれが当り前だから誰も気にしちゃいない。)
『班田収授の法』
戸籍ができて、6歳になると天皇様より田んぼを貰う事になるんだ。
これが『口分田』っていうものなんだけど。
広さは、男女でちょっと違うけど、男も女も貰うんだよ。
庶民は貰った田んぼで、せっせと米を作って、税金を納めなくちゃいけない。
『租庸調制』
これは、税金の事ね。
租 ・・・収穫したお米を納めないといけない。
庸 ・・・都での肉体労働。(都まで行けない地方の人は、代わりに布を納めてたんだ。)
調 ・・・各地方の特産物も納めないといけない。
『国郡里制』
今の都道府県・市町村と同じようなもん。
それぞれの長は、国司・郡司・里長。
地元で選ぶんじゃなくて、都で選ばれて派遣されてたんだ。
これで、『中央集権国家』を目指してた事が分かるよね。
蘇我氏の暗殺に始まり、改新の詔を宣言した一連の事が『大化の改新』なんだ。
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権力を欲しいままにした蘇我氏を倒した中大兄皇子と中臣鎌足。
天皇を中心とする大化の改新を実施する。
それにより、庶民には辛い公地公民や租庸調制の実施も始まってしまった。
そして、百済を応援した日本は、唐の復讐に脅える事になる。 >>> 唐に脅えた天智天皇
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