北条政子のおかげで鎌倉幕府が復活
さて、さて、将軍がいなくなた執権の北条氏。
将軍あっての執権だから、将軍がいなと困るわけ。
「じゃぁ、北条氏が将軍になれば良いじゃん」って、でも北条氏じゃダメなんだ。
だって、北条氏は家柄が良くないから、誰も将軍として認めてくれない。
で、北条氏は、将軍探しに走りまわる事になるのね。
北条氏にとって、家柄さえ良ければ、子供でも爺でもたぬき置物でも良かったんだ。
御家人が納得すれば誰でも良かった。
そんでも、始めは天皇様のお子様に「将軍になってもらえません?」って、お願いしたんだけど。
でも、天皇様一族で一番力があった『後鳥羽上皇』様が、大反対さ。
なんたって、『後鳥羽上皇』様は、大の幕府嫌いだったから。
て、言うか、親政を行いたい『後鳥羽上皇』様にとって、幕府はじゃまなわけ。
で、次に北条氏が目を付けたのが、藤原氏。
ついには、藤原氏一族の九条道家の四男を連れてきて、将軍に据えたんだ。
この四男、まだ、子供でさ。
でも、北条氏にとっては、政治を知らない子供ぐらいがちょうど良かった。
だって、何も知らない子供だから、執権として何でも自由にできるでしょ。
ところが、北条義時が、「これで安心だ!」って思ってたところに、とんでも無い事が起っちゃう。
なんと、『後鳥羽上皇』様が、「執権の北条義時を成敗するでおじゃる」って命令をだしちゃたわけ。
この命令で、北条義時は天皇様に逆らう謀反人になっちまったんだから・・・
北条義時としちゃぁ、ビックリだ!
もう、鎌倉幕府側は大慌て。
「天皇様に逆らっちゃまずいだろ」なんて事で、結構な数の御家人が上皇様の味方になっちゃった。
鎌倉幕府が滅び、北条義時が謀反人として処罰されるのも時間の問題になった時・・・
初代将軍、源頼朝の奥さん『北条政子』が、御家人を前に大演説を行ったね。
(『北条政子』は、陰では、『尼将軍』なんて言われてた。)
あんたら、よ〜くお聞き!
幕府が出来る前は、朝廷にタダ働きさせられて、領土も身分も認めてもらえなかったじゃないの!
それをウチの旦那が、変えてくれたんでしょ?!
ウチの旦那が、領土も身分も保証したんじゃないの!
その恩も忘れ、昔みたいな生活がしたいのなら、別に、あたしゃぁ、止めないよ!
そんな恩知らずは、さあ、サッサと出ておゆき!!
この北条政子の大演説に、御家人は感動し、発奮したねぇー!
力自慢の武士なんて、単純だから。
「そうだ! 俺たちは、鎌倉幕府を守るぞ! 自分の領土を守るぞ! 朝廷と戦うぞ!」ってね。
こうなると、当然、幕府軍が勝っちゃう。
なんせ、戦のプロ集団だから・・・
これが、『承久の乱』
1221年、『後鳥羽上皇』様の見込みが狂った戦だった。
負けた『後鳥羽上皇』様は、隠岐島ってところに島流し。
さすがに、殺しちゃまずいからね。
で、こんな事が無いように幕府は、朝廷を監視する『六波羅探題』って役所を作ったんだ。
これで、幕府もしばらくは安泰。
『承久の乱』で、命拾いした北条義時が死んで、後は子供の北条泰時が執権についだ。
この北条泰時、武士のために初めての法律を作ったんだよ。
『御成敗式目』。 『貞永式目』とも言う。 1232年の事ね。
武士が武士のために作ったこの法律、その後、武士の法律の手本にされていくんだ。
ところがだ、北条氏の平穏な日々を突き破る出来事が起きちまった。
なんと、中国から『元寇』が、襲ってきやがったんだ。
チンギス=ハンがモンゴル帝国を作った後、息子の『フビライ=ハン』の元王朝になっていた。
そのフビライ=ハンが、朝鮮半島の『高麗』を征服して日本に攻め込んできたんだ。
フビライ=ハンも始めは、「属国になれ!」って何度か使者を送ってきてたわけ。
当然、「バカにするな!」って、鎌倉幕府は拒否るよね。
「OK、属国になります」なんて言うわけないでしょ。
最後には、頭にきてフビライ=ハンの使者を切り捨てたんだ。
そしたら、フビライ=ハンも怒ってねぇ。
「もう、容赦しない! 攻め込んじゃえ!」って、『元寇』が襲来してきわけさ。
北九州が、その戦場。
幕府は、御家人を集めて、海岸に『防塁』を作って、迎え撃ったんだけどね。
でも、相当に苦戦したようだ。
だって、今までの戦い方と全然違ったからね。
今までは、戦の初戦は一騎討ちみたいなもんでさ。
戦いの始めに武将が前にでて、
「やあやあ、我こそは○○の息子で、○○な手柄をたててきた。この俺と見合うヤツは出てこい!」
相手方からも名乗り上げて、
「どうれ、俺こそは、○○で手柄をたて、○○の位を持つ男だ。お前に見合う相手だ。尋常に勝負!」
って、お互い名乗りを上げてから決闘してたんだ。
でも、『元寇』には、名乗りを上げる習慣なんてないし、そんなの関係無いじゃん。
「やあやあ、我こそは・・」って、名乗りを上げてる最中でも、ワァーって集団で襲われちゃう。
こっちでも、「やあやあ、我こそは・・」ワァー、あっちでも「やあやあ、我こそは・・」ワァー。
この集団戦法で、大苦戦したんだ。
それと、彼らは『火薬』 使いやがった。
火薬って言っても家も人も吹き飛ばすような強力なものじゃない。
花火のデッカイ版みたいなもんだ。
でもさ、この火薬の『ドカン!』って音に馬が驚いてね。
御家人は、馬から振り落とされちゃうわけ。
「やあやあ、我こそは・・」ワァー。 『ドカン!』「ヒヒィーン」ワァーだ。
何? 何? 想像つかない?
じゃぁ、『蒙古襲来絵詞』って絵があるから見てごらん。
教科書に載ってるはずだから。
それで、幕府軍は大苦戦の連続!
でも、危ういところで大風が吹くんだ。
この大風で、『元寇』の船の多くが沈んだり壊れたりした。
幕府軍は、『神風』って、そりゃぁ、喜んだ。
でも、本当は台風の仕業なんだけどね。
やつら『元寇』は、2回もやって来やがった。
1274年の『文永の役』と、1281年の『弘安の役』。
で、2回とも『神風』で、勝ったんだ。
しかし、鎌倉幕府にとっては、それからが大変だったね。
戦に勝ったけど、幕府は御家人に与える褒美が無いんだ。
褒美って、もちろん土地の事ね。
今までは、戦に負けた方の土地を褒美に与えてたんだけど・・・
相手が外国じゃそうもできないでしょ。
だからって、「申し訳ない。 今回は、我慢してくれ」とも言えないんだ。
「何故か?」って、御家人たちは、戦争にかかった費用を全て自前で賄っていたからね。
旅費も食費も日当も全て自腹。
それでも、勝ちゃ土地が貰えるからって頑張ってたんだ。
「タダ働きか!」「どうしてくれるんだ!」「借金までしたのによ!」って、幕府への不満の嵐さ。
実際に、借金して参加してる御家人も多かったんだよ。
でも褒美も無いから生活が極端に苦しくなるのは当然でしょ。
そこで、幕府が考えたのが、『徳政令』。
つまり、「借りた金は、返さなくて良い」って、法律なんだ。
「借金は、チャラにするから勘弁してよ」ってものだったんだけど・・・
これに喜んだのは御家人だろうが、お金を貸した商人はビックリさ。
「そりゃぁ、ないよ! 借金をチャラにするなんて・・・」
「しかし、文句も言えない・・・」
「よ〜し、覚えてろよ! 今度、借りに来ても、御家人には絶対貸してあげないもんね!」
ってな事に当然なるでしょ。 (まあ、普通、そうなるわね。)
だから、日々の生活を借金しながら暮らしてた御家人は、借金する事もできなくなっちまったんだ。
御家人の生活は、苦しくなる一方。
幕府に対する御家人の怒りは、もう爆発寸前だ。
そろそろ、鎌倉幕府の終わりが見えてきたかな?
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後鳥羽上皇より討伐の命令が出てしまう。 執権の北条氏のピンチだ。
この北条氏のピンチを救ったのが、北条政子。
しかし、新たな元寇という敵が現れだ。
幕府もピンチだが、朝廷も分散してしまう。 >>> 天皇家が2つになる
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