聖徳太子が活躍する飛鳥時代
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聖徳太子―飛鳥時代

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聖徳太子が活躍する飛鳥時代

大和朝廷の中で一番偉いのは、そりゃぁ、もちろん『大王』=『天皇』ですよ。 
でもね、『大王』より、もっと威張ってたヤツがいたんだ。
蘇我氏物部氏がそれ。
こいつら、『天皇』様を天皇とも思っちゃいない。
自分の権力に利用してただけなんだ。

ある時、蘇我氏物部氏とで「仏教を認めるか?」って事で喧嘩になってね。
ほら、日本って元々、神様の国でしょ。
そこに、「仏様を入れても良いのか?」って、もめちゃったわけ。

蘇我氏は、「仏教も良いもんだ!」って賛成派。
物部氏は、「絶対ダメ!」って反対派。

で、喧嘩した結果、ついに蘇我馬子物部氏を滅ぼしちゃったんだ。
そしたら、蘇我氏は、敵対者がいなくなったもんで、以前よりもっと威張っちゃって・・・
天皇様も手がつけられない状態。


そんな時に現れたのが、『聖徳太子』。

聖徳太子は、本名を『厩戸皇子』って言うんだ。
聖徳太子』って呼び名は、死んだ後につけられたのね。
だからって、文部科学省は教科書の記載を『厩戸皇子』にしようとしたんだ。
どうせ、「史実と違うから訂正しよう!」てな役人的発想でしょ。
でもね、現場の教師の「教えづらい!」「現場が混乱する!」などの反対で中止になっちゃった。
アホだよね。

聖徳太子は、推古天皇様を助けて、593年に初めての『摂政』になられたんだ。
摂政』って、天皇を助けて政治を行う人の位の事ね。
だって、推古天皇様は、女性でしたから・・・
(女性や子供には、助けが必要でしょ。)

そして、聖徳太子は、603年に『冠位十二階』って制度を作った。
今までは、家柄が悪ければ、優秀な人でも高い役職につけなかったんだ。
でも、以後は、家柄が悪くても能力や手柄があれば、それなりの役職につけるようになったんだ。

そして、翌年の604年には、『十七条の憲法』を作られた。
『憲法』って言っても、国民のための憲法じゃないよ。
だって、庶民は字が読めないからね。
まあ、役人に対しての『社訓』みたいなもんかな。

有名どころを一部抜粋すると・・・

『一に曰く 和を以って貴しとなし』
「ひとつ、みんな、仲良く仕事しなさい」って事。

『二に曰く 篤く三宝を敬え』
「ふたつ、3つの宝を大切にしなさい」
3つの宝って、「仏」「法」「僧」の事だよ。
「仏様とその教え、教えを広める僧侶のを大事にしなさい」って意味ね。
ここまで言えば分かるっしょ。
要するに、「仏教を大切にしろ」って事なんだ。

『三に曰く 詔を承りては必ず謹め』
「みっつ、天皇様の命令には必ず従いなさい」って事。

『二に曰く 篤く三宝を敬え』でしょ。
聖徳太子は、仏教をとても大事にしたんだ。
天皇様の事より、「仏教を大事にしなさい」って、先に言ってるぐらいだからね。

だから、聖徳太子は、仏教の象徴として奈良に『法隆寺』を造ったんだ。
法隆寺』は、世界最古の木造建築なんだよ。
でね、金堂の柱をよ〜く見てみてみると分かるけど、柱の真ん中がふくれてる。
ギリシャのパルテノン神殿の柱みたいになってるんだ。

世界最古の木造建築の法隆寺
〔世界最古の木造建築の法隆寺〕 

この頃は、まだ、外国のマネですよ。
だって、日本文化って言ってもまだまだ歴史が浅いでしょ。
インドやペルシャ、朝鮮半島にあった百済なんかの文化を参考にしてたんだ。
この頃の文化を 『飛鳥文化』ってよんでます。

この法隆寺には、『釈迦三尊像』や『百済観音像』も納められてるんだ。
工芸品の『玉虫厨子』なんかもある。
これらは、国宝になってるんだよ。


それから、それから、607年に聖徳太子は、中国の『』に使節を送りました。
そう、『遣隋使』ね。

遣隋使』の代表が小野妹子
なんたって、『』の方が、日本よりず〜っと文化が進んでるからね。
何でも教えてもらいに行かなきゃ。

それにしても、聖徳太子様が、小野妹子様に持たせた手紙はすごかったなぁ〜
『日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。 つつがなきや』
(日が昇る国の天皇様が、日が沈む国のお前に、手紙を書いてやったぞ。 どうだ、元気か?)
どう? 喧嘩になりそうな手紙じゃない。

実際に、の王様は、「無礼なヤツ!」って、大変怒ったそうなんだ。
でもね、この頃、中国は他と戦争をしていて、日本と喧嘩する余裕が無かったらしい。
だから、喧嘩にもならずに無事、交流が始まったんだ。

これには、続きがあってね。

小野妹子は、の王様から返書をもらったそうだ。
でも、その返書は、日本を中国の臣下扱いした文書だったのね。
だから、小野妹子は、「このまま天皇様に渡しちゃマズイよなぁ〜」って考えたらしい。
結局、返書を渡すことなく、「返書は無くした」って言い訳したそうだ。

(いつの時代も上司のご機嫌を損ねないようにって、部下の苦労は絶えないよなぁ〜)

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天皇をしのぐ権力を持った蘇我氏を抑えるために現れた聖徳太子。
彼の偉業は様々に語り継がれているが、最も大きな功績は仏教を勧めた事。
仏教を信心する教えは、現代の日本人の多くに受け継がれている。
そして、聖徳太子亡き後の蘇我氏の復活を阻止する人物が現れる。   >>> 天皇主権の大化の改新

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