足利尊氏による室町幕府が誕生
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足利尊氏による室町幕府が誕生

鎌倉幕府を倒して、喜んだ『後醍醐天皇』様は、『建武の新政』ってのを始められたんだ。
まあ、昔みたいに、天皇様が自ら政治を行う『親政』の事ね。
要するに、『後醍醐天皇』様は、皇族や貴族のための政治を行いたかったんだな。

でもね、武士たちは、もう、ガードマンでも自警団でもないでしょ。
領土も身分も保証された生活をしてきたからね。
皇族や貴族のためだけの政治に猛反発さ。
「話が違う!」って、騒ぎ始めんたんだ。
そりゃぁ、そうさ、命がけで鎌倉幕府を倒したのに、領土も身分も取り上げられちゃうんだから。

そこで、武士たちは、鎌倉幕府を倒した功労のある『足利尊氏』に相談したんだ。
まあ、実際に戦って、鎌倉幕府を倒したのは、新田義貞だったんだけどね。
「尊氏さんよ、俺ら何のために戦ったんだ? 領土も身分も取り上げるなんて理不尽じゃないか!」
足利尊氏は源氏の名門だったし、天皇様にゴマする事もなく武士の話を聞いてくれたからね。

足利尊氏は、「俺が統領になって、将軍になっちゃる!」てな野心家じゃなかったんだけど・・・
回りの武士の「武士のための幕府を開いてよ!」なんて声で、室町幕府を開く事にしたんだ。

しか〜し、幕府を開くには、1つ問題があるでしょ。
武士の統領になって、幕府を開くには、『征夷大将軍』にならないといけない。
その『征夷大将軍』になるには、天皇様に任命してもらわないといけないじゃない。

しかも、肝心の天皇様は、喧嘩相手の『後醍醐天皇』様。
当然、「ふん、お前なんかを征夷大将軍に任命してやるもんか!」って事になるよね。

で、足利尊氏は考えたね。
ちょうど、天皇様の派閥が、『持明院統』『大覚寺統』って、2つに分かれてたでしょ。
後醍醐天皇』様は、大覚寺統だったから、尊氏は『持明院統』に頼みに行ったんだ。
「俺の力で、天皇様にしちゃるから征夷大将軍に任命してよ」ってね。

「後醍醐のやろう、自分の事しか考えちゃいねぇ!」って思ってた『持明院統』も渡りに船だった。
これで、後醍醐天皇様とは別に『光明天皇』様が誕生したんだ。
足利尊氏は、無事に征夷大将軍に任命され、1338年に『室町幕府』を開く事ができたわけ。


そんな動きに、後醍醐天皇様は、「天皇は俺であんなやつ天皇じゃない!」って激怒したんだけど。
でも、激怒しようがスネようが、もう、この流れは止められない。
『光明天皇』様には、『室町幕府』が付いてるから、もう、怖いもんなんかないしね。

肩身が狭くなったのは、後醍醐天皇様の方だったわけ。
そこで、後醍醐天皇様は「クソ! こんな都、出て行ってやる!」てな事で奈良に移っちゃうんだ。
この時、天皇の証である『三種の神器』を持っていかれてしまった。
これで、京都の光明天皇様と奈良の後醍醐天皇様の二人の天皇が存在する事になったんだ。


そんな事がありつつ、『室町幕府』の政治がスタート。
まあ、組織は、鎌倉幕府と似たようなもんかな。

将軍がいて、執権の変わりに『管領』って役職があって。
管領になれるのは、斯波・細川・畠山の三家。
この『管領』は、三家から交代で務めたんだ。
次に侍所の長官は、山名・赤松・一色・京極の四家が担当したんだ。

ほんで、鎌倉幕府の残党を監視する『鎌倉府』って役所が作られ『関東公方』が置かれた。
『関東公方』を補佐する『関東管領』も置かれたんだ。

地方には、武士を統括する『守護』があったでしょ。
中央でゴタゴタしてる間に、この守護も力をつけてね、『守護大名』と呼ばれるようになっていた。
まだ、まだ、室町幕府も力が弱かったから、守護大名との連合体みたいなもんさ。

守護大名達は自分の都合で、『持明院統』『大覚寺統』を勝手に応援していたんだ。
もう、節操もなにもあったもんじゃ無い。 グチャグチャさ。
「今日の味方が明日は敵」なんて当たり前。
室町幕府のスタートなんて、そんな状況だったんだ。

それで、京都の持明院統を『北朝』、奈良の大覚寺統を『南朝』ってよぶんだ。

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後醍醐天皇の大誤算。  武士は、もう、昔の武士では無かった。
武士に押されて、足利尊氏は室町幕府を開設する。
守護も力をつけ、守護大名となっていく。
そんな中、足利義満の時、室町幕府の絶頂期がくる。  >>> 室町時代の絶頂期

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