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  徳川家康の暗躍が始まる
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 徳川家康の暗躍が始まる
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徳川家康の暗躍が始まる

天下を統一した秀吉が亡くなってしまった。
後に残されたのは、まだ、子供だった秀吉の息子『豊臣秀頼』。
勝家と一緒に自害した市の娘『茶々』との間にできた子供でね。
秀吉には、『ねね』って、りっぱな奥さんがいたんだけど、『茶々』を愛人にしてたんだ。

この 『秀頼』は、まだ子供で、政治なんかできるわけがない。
だから、秀吉は、秀頼が成人するまで、五大老と五奉行の合議制で政治を行うように遺言してたんだ。
五大老は、徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元上杉景勝の5人の大名。
石田三成浅野長政前田玄以長束正家増田長盛の秀吉の家臣5人が五奉行というわけだ。

五大老は、55万石の宇喜多秀家から250万石の徳川家康まで、大大名揃い。
一方、五奉行は、秀吉の家臣だったが最高でも20万石と小ぶり。
この石高を見ても、この五奉行で、大大名の五大老を抑えて行くなんてもう無理でしょ。
250万石の家康なんか、五奉行なんか無視して何でもできる財力と軍事力があるからね。

実際、家康は秀吉の遺言なんて無視だよ。 無視。
「大名同士、勝手に結婚しちゃダメだ」って事になってたのに、無視。 無視。
家康は、有力大名と勝手に、ドシドシ結婚話を進めて行ってね。

石田三成は真面目だから、「家康さん、勝手に縁組しちゃイカンでしょ!」と責めるわけ。
家康は、「あっ、そうやった。そうやった。年取ったのでボケてるわ」って返すんだわ。
でも、何事も無かったように、ガンガン縁組しちゃうんだ。   相当のタヌキだろ。
「家康さん、いい加減にしろや!」「あっ、すまん。すまん。ボケてるわ」これの繰り返し。
石田三成は、「このままじゃ、家康の思い通りの国になってしまう」って考えるわけね。


一方、五大老の一人上杉景勝は、越後から陸奥会津に加増転封になって、新しい領土の整備中。
領内の整備・城の修築、新兵の増加など、新しい領地の整備を行なっていたのね。
新しい領土なんだから、当たり前の事なんだけどさ。

これに、家康は、「何、武装してんだ!謀反するのか!説明しに来い!」ってイチャモンだ。
上杉景勝としちゃぁ、「はぁ〜? 何それ? 何で・・??」 って事になるわけ。
だから、上杉景勝の重臣だった直江兼続が、ものすご〜く頭にきて。
「お前は、約束やぶて結婚を進めてるだろ!新領を整備し、家臣の充実を図って何が悪い!」
「文句があるならかかってこい!」って『直江状』を家康に送りつけたんだ。

これには、家康も頭にきたね。
「上杉は、謀反を企ててる! 征伐に行くぞ!」ってね。
でも、これは家康得意の演技さ。
もう、「天下を手に入れる」って決めてた家康にとって、上杉征伐は秀頼の元を離れる口実なんだ。

だって、家康が秀頼の元を離れたら、家康に不満のある石田三成なんかが動きやすいでしょ。
「今がチャンス! 家康がいない間に、不満の大名と家康をやっつける打ち合わせができるぞ」てね。
家康は家康で、「この機会に、俺に不満のヤツを一気に叩き潰してやる!」って思ってたんだから。

案の定、家康が上杉征伐に出かけた後、三成は動き出した。
三成は、大谷吉継増田長盛安国寺恵瓊らと密談して「打倒!家康」の仲間集めを始めたんだ。
毛利輝元へも「西軍の総大将になって下さいよ。お願いしますよ。」って仲間に引き込んじゃう。
こうやって、三成は、「打倒!家康」の準備を着々と進めていったんだ。


さあ、いよいよ、三成が仲間を引き連れて、家康を倒すために出発だ。
家康は、三成の出発の連絡を聞くと、上杉征伐に連れて行った各大名と打ち合わせするんだ。
連れて行った大名の中には、豊臣家の家臣だった黒田長政福島正則もいたからね。
黒田長政や福島正則が、三成の味方になっちゃヤバいじゃん。

結局、黒田長政福島正則は、三成が嫌いだったから家康の味方をしちゃうんだけどね。
それで、彼らは引き返して清洲城に集結して、家康の到着を待つ事にしたんだ。
でも、家康は江戸城に入ったまま、じーっとして動かない。

当然、「家康は、何故、ココに駆け付けない?!俺らだけに戦わせるのか!」なんて不満がでちゃう。
家康にしたら、まだ豊臣家恩顧の大名達を信じ切っていなかったようだ。

使者を出して、「何で美濃(岐阜城)を攻めないの?」なんて言わせてる。
この言葉に、清洲城に集結した大名たちは、すぐに行動に移し岐阜城を攻め取ってるんだ。
これに安心した家康は、やっと腰を上げた。

この間も家康は、ボォーとしていたわけじゃないんだ。
敵の大名には、「三成なんか裏切って味方してよ」
味方の大名には、「今はこんな状況」とか「××に応援出してね」
なんて、敵味方宛に200通ぐらいの手紙を書いているんだ。
(さすが、家康さん用意周到だね。)

いよいよ、家康の東軍と三成の西軍が、関ヶ原で激突。1600年の事だ。
軍勢は、東西ほぼ互角かな。
布陣は、西軍が完璧な鶴翼の陣で、東軍を包み込むような布陣を取ったんだ。
誰が見ても西軍の有利にしか見えないような布陣だったんだよ。
おまけに、徳川秀忠(家康の息子)の部隊33,000人は、真田昌幸2,000人に阻まれ間に合わないし。

関ヶ原の合戦 布陣図

でも、勝負は1日で片付いちゃった。
結果は三成の惨敗だ!

真田昌幸なんか、
「俺が、3万もの軍勢を足止めしたのに何故負けたんだ?!西軍は、戦の間、寝てたのか?!」
なんて、言いだす始末だ。

石田三成は、官僚としては頭も切れるし優秀だったけど、武将としてはダメだな。
島津義弘が、「夜襲をかけよう!」と進言したけど、「危険が多い!」って採用しない。
「そんなら、もう、知った事じゃねえ!」って、島津義弘はヘソ曲げちゃったもんね。

豊臣秀頼は、おっかさんの淀君が「ダメ」と言って出陣しないでしょ。
総大将の毛利輝元も 「大阪を離れると、大阪城を乗っ取られる」って噂で動けない。
小早川秀秋の動向が怪しい。 味方が、家康に寝返りそうで不安。
なんて、石田三成自信が、疑心暗鬼じゃ勝てるわけないよ。
(味方を信じなきゃ。)

石田三成は仲間を信用してないし、仲間も三成を信頼してない。
これじゃ勝てんわ。

実際に、戦いが始まっても島津義弘小早川秀秋も一歩も動かなかった。
最後は、小早川秀秋が西軍を裏切って、チャンチャン。

最終的に、石田三成は、つかまって処刑だ。
家康は、西軍に味方した大名を処分して、その実力を動かないものにしてしまったんだ。

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五大老の徳川家康。 その実力を背景に思うがままの行動に出る。
ついには、五奉行の石田三成と関ヶ原で激突だ。
関ヶ原の戦いで勝利した家康は、その実力を動かないものにしてしまった。
江戸幕府を開いた家康は、豊臣家対策に本腰を入れていく。   >>> 江戸幕府と豊臣家の滅亡

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