江戸幕府と豊臣家の滅亡
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江戸幕府と豊臣家の滅亡

関ヶ原の戦い』に勝利した家康は、もう、誰もが認める天下人。
要するに、誰も家康に逆らえないんだな。
で、家康は、1603年に『征夷大将軍』に任命されるんだ。
武士の統領である『征夷大将軍』になった家康は、『江戸幕府』を開くのね。

で、たった2年で、息子の秀忠に将軍職を譲っちゃう。
自分は、大御所として秀忠のサポートに回る事にしたんだ。
社長が、息子を社長にして、自分は会長になるようなもんだ。
これは、「もう、豊臣に天下は渡さん! 俺の言う事を聞け!」って事なんだ。

大名の配置換えもドンドン行っていった。 そりゃぁ、見事だったなぁ。
親戚の『親藩』は、江戸の近くや重要な場所に配置するでしょ。
その周りに、以前からの家臣や味方だった大名『譜代大名』を配置して。
『関ヶ原の戦い』の後に味方になった『外様大名』は、江戸から遠くに置いちゃう。
江戸・大阪・京都・奈良・金山のある佐渡・材木の飛騨などは、幕府の直轄地の『天領』にしたんだ。

親藩』の中でも、名古屋の『尾張藩』、和歌山の『紀州藩』、茨木の『水戸藩』は特に重要ね。
この三藩を『御三家』といって、将軍の跡取りが無い時に、この御三家から将軍を出す事ができる。
みんな、家康の子供が藩祖なんだよ。

それで、一万石以上が大名、一万石以下が旗本。
各大名の領地を『藩』ってよんで、幕府−藩 による政治、『幕藩体制』をつくったんだ。

幕府の仕組みは、将軍の補佐役の『老中』が数名いてね。
老中は、譜代大名から選ばれる事になってるんだ。
場合によっては、老中の中から『大老』が任命される事もあったんだ。
最高の老中さ。

老中の下に、大目付町奉行勘定奉行が置かれ。
要するに、社長がいて、重役がいる。大名管理部長・庶民管理部長・経理部長がいるようなもんだ。
朝廷の管理役には、『京都所司代』が配置されたてね。
こうやって、家康は、着々と江戸幕府を堅固なものにしていったんだ。


でも、まだ問題が1つある。そう、豊臣家ね。
始めは、家康も下手に出てたんだよ。
自分が征夷大将軍になった年に秀吉との約束を守って、自分の孫『千姫』を秀頼の奥さんにしたんだ。
これで、「徳川と豊臣は親戚だ」って表明した事になるわけ。

それに、秀忠が将軍職になった時に、内大臣って官位をもらったんだけど、秀頼は右大臣になった。
これも、家康の配慮なんだ。

でも、「秀頼様が右大臣になったんだから、その内、関白になるんじゃないの」って世間の評判。
これに家康は、反応したね。
「冗談じゃない! 天下は、もう、徳川のもんだぞ! 秀頼、ちょっと、頭を下げに挨拶に来いや!」
秀頼に挨拶に来るように命令した。

だけど、秀頼のおっかさんの淀君は、「家康がなんだ!元々、旦那の家来だろ!」って息が荒い。
それに、「秀頼ちゃんに、何かあったらどうしよう・・・」って、タヌキの家康の事が不安なんだ。
そこで、現実をわきまえてる加藤清正浅野幸長らが間に入って、挨拶は無事に終わるんだけどね。

でも、関西では秀頼の人気が高いのに変わりないんだな。
家康は、やっぱり「豊臣をどぎゃんかせにゃいかん!」って、思ってたみたいだ。
そんな中、浅野幸長堀尾吉晴加藤清正池田輝政って、豊臣家に縁の深い人が次々と亡くなって。
そうなると、虚勢をはっていても豊臣家としちゃぁ、やっぱり、家康が怖いわけ。
だから、朝廷から勝手に官位をもらったり、兵糧や浪人を集めだしたんだ。

これを家康が、ほっておくわけないじゃん。
始めは、秀吉の莫大な財産を減らす為に、「秀吉様のために、いっぱいお寺をつくってはどうです?」
て、持ちかけてお金を使わせてたんだけど・・・ きりが無い。
「どんだけ豊臣には財産があるんじゃ!どぎゃんかせにゃいかん!」との思いは募るばかり。

そんな時、再建中の寺の1つ方広寺の鐘に、『国家安康 君臣豊楽』って刻まれてる事を知ってね。
そこで、家康得意のイチャモンだ。
「なんだ!家康の文字を切り離し、豊臣が楽になるって何だ!喧嘩売ってんのか!!」って激怒。
本当は、「国に戦争や疫病が無くなって、平和な時がきますように」って意味なんだけど。

家康も知ってたはずだ。 そんな事ぐらい。
でも、秀頼を大阪城から追い出す口実なんだから、何でもいいのだ。   (もう、確信犯よ。)
豊臣方はビックリさ。「えぇ〜〜!! なんでぇ〜〜!! そんな意味じゃないよ!!」
家康は強気で、「もう、お前ら大阪城を出てゆけ!そして、大和郡山へ行け!」って命令するんだ。

でも、問題は秀頼のおっかさんの淀君だ。
「なによ、旦那の家来だったくせに!出て行けって、バカにすんじゃないよ!」ってスゲーけんまく。
結局、家康の命令に従わなかったんだ。

タヌキの家康としちゃ、「そうこなくっちゃぁ」って喜んだと思うよ。
後腐れ無いように、このチャンスに、秀頼を一気に叩き潰したいんだから。
それで、各地の大名に、豊臣征伐の命令を出すんだ。


さあ、『大阪冬の陣』の始まりだ。
ココで、豊臣に味方する大名は、もう一人もいなかったね。
でも、関ヶ原の戦いで没落した大名や浪人が、「これはチャンス!」って大勢集まったんだ。
あの真田幸村もその一人ね。
そう、関ヶ原の戦いの時に、秀忠を足止めした真田昌幸の息子さ。

真田幸村は、親父に似て戦の天才だったんだ。
「こんな事して家康をやっつけましょ」「あんな事しましょ」っていっぱい提案したんだけど。
「ふん、浪人のくせに偉そうに意見するんじゃないぞ!」って、全てボツにされちゃう。
真田幸村は、しかたなく、大阪城の外に『真田丸』って砦を築いて戦う事にしたんだ。

さあ、いよいよ、徳川と豊臣の決戦だ。
家康の圧倒的有利かと思ってたんだけど・・・
難攻不落の大阪城。 城攻めが苦手な家康。 真田幸村の大活躍。 で、大阪城が落ちない。

しびれをきらした家康は、「淀君がいるあたりに、大砲をブチ込め!」って命令したんだ。
淀君の周辺に、大砲がドッカンドッカン落ちてきて、大勢の侍女が亡くなっていく。
怖くなった淀君は、「ひえぇ〜、家康さん、ちょっと休戦しましょうよ」って勝手に休戦してしまったんだ。
もう、全く勝手なんだから・・!

家康は、タヌキだから、
「しょうがないなぁ〜。休戦の条件は、外掘・内堀を埋める事ね。良い?!」
って条件を出したんだけど、「良い、良い。OK、Ok」って、淀君は承諾しちゃう。
で、『外掘』は徳川担当、『内堀』は豊臣担当って事で和解したんだけどね。

でも、ココで家康のタヌキ振りが、発揮される。
豊臣側は、「ゆっくりやれば良いや」って感じだったんだけどね。
でも、徳川側から作業員がきて外堀をガンガン埋めて、内堀まで埋め出したんだ。

豊臣側は慌てたね。「おい、内堀は豊臣の担当だろ! 何してんだよ!」ってね。
徳川側では平然としたもんだ。「作業が遅いから手伝ってるだけですよ」
って、慌ててる豊臣を無視して、全ての堀を瞬く間に埋めてしまった。
これで、大阪城は丸裸だ。

その上で、家康はもう一度、「おい、おい、なんでそんなに浪人を雇ってるんだ?!喧嘩する気か!」
「そんなつもりじゃないのなら、秀頼よ、大阪城から出ていけよ!」って命令するんだ。
それでも、丸裸の城にいて豊臣側は、まだ、「嫌だ!」って言ってる。


大阪城にある秀頼と淀君の墓

また、また、戦争だ。
今度は、『大阪夏の陣』の始まりだ。
もう、勝負はミエミエじゃん。
丸裸の大阪城では籠城もできなくて、豊臣側は絶対のピンチ。

で、真田幸村は、
「総大将の秀頼様が、陣頭に立てば豊臣軍も勇気百倍になる」
って進言するんだけどね。

淀君が猛反対。
「なに言ってんの!秀頼ちゃんに何かあったらどうすんの!」
大将のいない戦じゃ、盛り上がらないよなぁ〜

それでも、真田幸村だけは頑張った。
もう少しで、家康に刀が届くところまで行ったんだ。
家康は、輿にしがみついて逃げ出したって話だ。

負けた秀頼は、おっかさんの淀君と一緒に自害しちまった。
これで、完全に徳川の世の中だ。

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大名の配置換えもどんどん行い、江戸幕府を強固なものにした家康。
目障りな豊臣を屈服させるために画策する。 ついには、大阪夏の陣・冬の陣だ。
現実が見れなかった豊臣は、この戦いで滅んでしまう。
徳川幕府をさらに強固なものにしたのは、3代目光秀だった。   >>> 幕府の地固めと鎖国

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