尊王攘夷論と倒幕
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尊王攘夷論と倒幕

こうなると、反感の目は勝手に条約を結んだ井伊直弼に、当然向いちゃうよね。
「こうなったのもあの井伊直弼が、勝手に条約を結ぶからだ!」ってね。
そしたら、なんと、井伊直弼のヤツ逆切れだ。
「ごちゃごちゃ言うな! 文句あるヤツは処罰するぞ!」って、批判的な大名や学者を処罰してしまった。
これが、『安政の大獄』って言われてる出来事だ。

そのちょっと前の出来事だけど、家定は身体が弱い。
「家定様は身体が弱いから、後継ぎを決めとかないと・・・」って十四代目の将軍を決める事になったんだ。
家定には子供がいなかったから、御三家か御三卿から選ばれる事になった。

候補に上がったのが、紀州の慶福と、水戸藩出身で一橋家を継いでた慶喜ね。
井伊直弼慶福派だったから、十四代目は慶福を改名した徳川家茂と決まったんだ。

この時、井伊直弼は、「俺が、慶福様が良いって言ってんだ! 反対なんかするな!」って強気でね。
ついには、慶喜を推薦してた老中は懲戒免職、官僚らは左遷、慶喜は謹慎だ。
強気で強引なやつだよ。井伊直弼ってヤツは・・・

で、十四代目が徳川家茂って決まったとたんに徳川家定が亡くなっちゃう。
タイミングがバッチリだったんで、「暗殺された」って噂も出たほどなんだ。

井伊直弼みたいに強引なヤツは、やっぱり嫌われるでしょ。
慶喜は、水戸藩出身だったので水戸藩士は大激怒だ。
「俺らの慶喜様を謹慎させるとは何事だ! 井伊直弼のヤロウ、たたっ切ってやる!!」
ついに、1860年、江戸城の桜田門付近で、元水戸藩士達に井伊直弼は暗殺されてしまった。
これが、『桜田門外の変』。


それに、外国との貿易が始まったもんで、生糸やお茶が不足してしまったのね。
「これも、幕府が開国なんかするからだ!」って徳川幕府に不満がつのると・・・
「そもそも外国人が悪い! 追い出してやる!」って、『攘夷論』って考えが多くなってきたんだ。
それに、「頼りない幕府は潰して、天皇様の世の中にしようぜ!」って、『尊王論』って考えも出てきた。
この2つを合わせて『尊王攘夷論』。

そんな風潮になってきて、幕府としても「なんとかせにゃ・・」って考えたのが、『公武合体論』。
天皇様の親族の女性を十四代目の家茂の奥さんにして、「朝廷と幕府と一緒になろう。」って考えだ。
孝明天皇様は、外人が嫌いなだけで「やっぱり頼れるのは幕府だ」ってバリバリの『佐幕派』だった。
だから、「おぉ〜! 良いアイディアでごじゃる。 それでは、妹の和宮を嫁がせるでごじゃるよ」
って、妹の『和宮』が、家茂の奥さんになっちゃたんだ。

でも、もう、時代の流れは誰にも止められない。
攘夷派尊王派佐幕派、って入り乱れての暗躍が始まるんだ。


そんな時に、尊王攘夷派で大藩である薩摩藩が、横浜の生麦でイギリス人を切り殺してしまう事件が起こった。
なんでも、乗馬を楽しんでた4人のイギリス人が、薩摩藩主の行列に遭遇したそうだ。
日本の習慣を知らないこのイギリス達は、騎乗したまま殿様のかごに近づいちまったらしい。
で、「このぶれいもの!」って、切り殺されちゃったんだ。
これが『生麦事件』。

仲間を殺されたイギリス側は、カンカンさ。
鹿児島まで軍艦を派遣して、『薩英戦争』になった。
イギリスは最新のアームストロング砲をバカスカ撃って、城の櫓や民家、藩士の屋敷など壊しまくったんだ。

それでも、薩摩藩は頑張ったね。
アームストロング砲に比べて飛距離が短い大砲だったが、それでも3隻程、大破・中破させてるんだ。
結局は、薩摩藩がイギリスに謝って、幕府から借金して賠償金を払ったって事だ。

この『薩英戦争』で薩摩は、「外国は強かでごわす! これじゃ攘夷は無理でごわす!」って思っちゃうのね。
それから、攘夷は諦めて倒幕に力を入れるようになるんだ。
イギリスも「薩摩は強い! 幕府より薩摩と仲良くした方が良いみたいだ」って感じたみたい。
だから、戦争したにも関わらず、薩摩とイギリスは仲良くなってしまうんだ。

今度は、長州藩の『下関事件』。
長州藩単独で攘夷を実行しやがった。
(知らないって事は怖いよ。 無謀だよ。 無謀すぎる。)
なんと、馬関海峡を封鎖して、航行中のアメリカやフランスの商船に大砲を撃ちまくったんだ。

当然、これに外国側は頭にきたね。
イギリスが呼びかけて、アメリカ・オランダ・フランスの4ヶ国連合で、長州藩に攻撃したんだ。
下関の砲台を徹底的に攻撃して、破壊・占領してしまう。

これで、長州藩も「外国は強いけぇ! じゃけぇ攘夷はでけん!」って思っちゃうわけ。
それから、長州藩は攘夷は諦めて、倒幕に力を入れるようになるんだ。
流れは薩摩藩と一緒。
(まあ、人間、何でもやってみないと分からないって事だね。)

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大老の井伊直弼が、江戸城近くの桜田門で暗殺され、徳川幕府の権威も地に落ちてしまう。
薩摩や長州は、攘夷論のもと勝手に外国との戦争も始め、徳川幕府の統率力もなくなる。
もう、舞台は江戸じゃない。 天皇のいる京都に移る。  >>> 動乱の幕末

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