武断政治から文治政治へ
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武断政治から文治政治へ

さあ、強気の三代目、家光の後を継いで四代目になったのが、家光の長男の徳川家綱
家綱は、可もなく不可もなくってところかな。
特に目立った将軍じゃなかったね。

ただ、家光が強気の政治をしてたでしょ。
大名とかもバンバン取り潰しちまったもんだから浪人がいっぱいなんだ。
無職の人が多くなって失業率が高いと、「政治が悪い!」って事になるでしょ。
だから、巷には、徳川幕府に不満の浪人がゴロゴロしてたのね。

そんな中、『油比正雪』が幕府の転覆を狙って謀反を起こそうと計画するんだ。
この人、軍学塾を開いてて、人気があったんだよ。
塾生も3,000人ぐらいいたそうだ。
でも、計画を幕府に密告されて・・・
逃げだしちゃうけど、駿府で町奉行の捕り方に囲まれ自刃してしまったんだ。

こんな事があっちゃ、幕府もちょっと考え直すわね。
「これ以上、浪人を増やしちゃいかんだろ。 大名の取り潰しもホドホドにせんとな」
って事で、強気の『武断政治』から、学問を中心にした『文治政治』に移行したんだ。


次は、五代目の徳川綱吉ね。
彼は、四代目の家綱の弟で、家光の四男だったんだ。
家綱に子供が無かったから順番が回って来たそうだ。

綱吉の母親は、お玉(桂昌院)といって、八百屋の娘って言われてる。
八百屋っていっても、「奥さん、今日はダイコンが安いよ!」って言ってるような八百屋じゃない。
大名とか大商人とかを相手にしてる八百屋さ。
庶民に野菜を売ってくれるような八百屋じゃないんだ。
格式ある(?)八百屋なんだ。

この頃は、嫁入り前の娘が大名や大奥に奉公に行く事が、箔をつける事になってたのね。
お玉(桂昌院)もその一人。
で、光秀に見初められ、家光の側室になって綱吉を産んじゃたんだ。

家光は、お玉(桂昌院)の身分が低かったので、綱吉に学問をさせる事を勧めた。
綱吉が、弟としての身分をわきまえ、家綱に無礼な事をしないように儒学を叩き込んだらしい。
だから、綱吉は、『儒学』大好きのお坊ちゃんになっちまったようだ。

学問の中心地として、湯島聖堂を建てたりしてる。
綱吉が儒学を重んじてたでしょ。
だから、儒学者の新井白石荻生徂徠山鹿素行などが、台頭して行く事にもなったんだ。

予想外に将軍に成りたての頃は、徳を重んずる文治政治を行って良い将軍だったらしい。
後々の八代将軍の吉宗も参考にしてたぐらいだから。。。

そんな中、大老の堀田正俊が、若年寄の稲葉正休に殺されちゃう事件が起てね。
それで、将軍の身の安全をはかるため、将軍の部屋が老中の部屋から遠ざけられたんだ。
で、将軍の命令を老中に伝える側用人がクローズアップされてきたわけ。
実際に、家光もいつも側にいる側用人の牧野成貞柳沢吉保らを重用しはじめたんだ。

まあ、社長秘書が、「社長命令です」って重役に指示を出すようなもんだね。
この側用人の場合、ホントに社長命令かどうか分かったもんじゃない。
家光が、重役よりも秘書を大事にしちゃったんで調子づいてたからね。


ところで、家光は儒学好きのお坊ちゃんじゃない。
儒学で徳を重んずるっていっても、自分に都合の良いような徳なんだ。
「親孝行しなさい」って事で、桂昌院に従一位って前例のないような官位を与えたりしてるんだぜ。
今までの慣例とかバランスなんてものは関係ない。
周りが困っても迷惑になっても、桂昌院が喜べば親孝行なんだ。

だから、桂昌院の知り合いの坊さんに、
「将軍様にお子が生まれないのは、前世でいっぱい殺傷をしたから。これからは動物を大事にしなさい」
って言われると、「俺は、戌年生まれだから特に犬を大事にしよう」って思っちゃうわけ。
で、『生類憐れみの令』なんて、とんでもない命令を出しちゃうんだ。

生類憐れみの令』って、動物は人間より大事って法律だ。
特に犬を大事にしたもんだから犬がのさばっちゃって・・・
野良犬が、家の中に入り込んで、噛みつこうがメシ食って行こうが、殴ったりしてはいけない。
犬を殴ったり殺したりして、捕まった人もいっぱいいたんだ。
島送りや処刑された人もいたんだよ。

本末転倒だよ。
母親の知り合いの助言だし、親孝行のつもりだったんじゃない?
庶民には、いい迷惑だよ。
だから、綱吉は、『犬公方』なんて言われてるんだ。

徳川光圀、あの水戸黄門さんは、綱吉に犬の皮を送りつけたりもしてるんだよ。
「犬を殺して剥いだ皮だ! 文句あるなら処罰してみろ! くだらん生類憐れみの令なんて止めなさい!」
って事じゃない。
さすがに、綱吉も水戸黄門さんには手を出さなかったようだが。。。

他にもね、お金の質を落として、お金の価値を下げちゃったりしてるんだ。
お金の価値が下がったから、すごいインフレになっちゃた。
庶民は、物価が上がり、犬に脅え、もう散々だ。


そんな中、毎年の恒例行事。
毎年、将軍は、天皇様に新年の挨拶の使者を送ってたのね。
朝廷からは、そのお礼の使者が、江戸に挨拶に来るようになってたんだ。

この時、接待役の赤穂の殿様の浅野内匠頭が、高家の吉良上野介と喧嘩して江戸城内で切りつけちゃう。
これには、学問好きで形式ばった事が大好きな綱吉は怒ったね。
「今日は、俺の晴れの舞台なんだぞ! そんな日に浅野は、何て事してくれたんだ!」ってね。
もう、「浅野は切腹!」って即断しちゃう。

この頃は、後腐れないように、「喧嘩したら両方悪い! 両方を同じ罰にする」って暗黙の了解があったんだ。
喧嘩両成敗』って物なんだけどね。
でも、「浅野は切腹、吉良は無罪」って即答しちゃったもんだから、浅野の恨みが残るわけ。
で、浅野家の家臣が、吉良の家に1年半後に押し入って、吉良の首を跳ねちゃう。
ご存じ、『忠臣蔵』。


さて、庶民に大迷惑をかけた『生類憐れみの令』を出しても結局、綱吉には子供は生まれなかったそうだ。
で、徳川将軍六代目は、綱吉の兄の子の徳川綱豊
綱豊家宣と改名して六代目になったんだ。

綱吉は死ぬ時まで、「『生類憐れみの令』は、後々まで残してな」って頼んだそうだ。
でも、家宣は綱吉が死ぬと、『生類憐れみの令』をサッサと廃止しちゃう。
「もう、叔父さんもアホちゃうか! こんな悪法なんてヤメ、ヤメ!」って事だったんだろう。

家宣には、台頭していた儒学者の新井白石も政治を手伝ったらしいよ。
家宣の政治は、『正徳の治』って、「スゲー善政だ」って言われてる。
でも、結局、綱吉の全否定しただけなんだ。
生類憐れみの令を廃止し、貨幣価値を元通りにしただけ。

六代目の家宣は短命だったね。
たった、3年で亡くなっちゃたからね。
後を継ぐ七代目は、息子の家継なんだけど、この家継まだ4歳でさ。

家宣は、「まだ、子供だから、別の大人か後見人を置いたらどうかな?」って考えていたんだけどね。
新井白石が、「大丈夫、大丈夫。 家継様でリッパにやっていけますよ」って反対なんだ。
でも、4年後に、たった8歳で亡くなっちゃうんだ。

8歳の将軍だったから、当然、跡取り息子はいないよね。
さあ、そこで、御三家がクローズアップ!
将軍の後継がいない場合、御三家の中から将軍を選ぶ事ができるシステムになってたでしょ。

この時は、尾張藩と紀州藩で、将軍の座を争っう事になったんだ。
この跡目争い、相当に激しい選挙運動になったみたいだよ。
結局は、「家康様のひ孫で、直系の血が濃い」って事で、紀州藩の吉宗が八代将軍になる事になったんだ。

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武断政治が続き浪人も増えた。 油比正雪の事件もあって、幕府は方針を転換する。
そんな中、儒学好きの綱吉が五代将軍となり、ついに、生類憐れみの令という悪法を発してしまった。
悪法に苦しめられた庶民も綱吉の死により解放された。
その頃の幕府の財政は大赤字。 それを改革したのが吉宗だ。   >>> 暴れん坊将軍 吉宗

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