飢饉と改革
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別冊歴史REAL江戸の食と暮らし


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飢饉と改革

九代目の家重の後を継いだのが、つまり十代目になったのが息子の徳川家治ね。
この家治、政治には全く興味が無かった。
好きな将棋や趣味に没頭して、政治は側用人の田沼意次と老中の松平武元に任せていたんだ。
それで、老中の松平武元が亡くなると、田沼意次を老中にしちゃう。

この田沼意次、今までの米を中心とした重農主義から、重商主義に政策を変えてしまったんだ。
株仲間を作らせ、特権を与えてる代わりに冥加金ってワイロを取っていた。
「大事なお金を献上する、その気持ちを大事にしたい」って公言してたとか、してなかったとか・・・。

トップがこれじゃ、小役人も右に習えでしょ。
そのため町人・役人の生活がお金中心になり、そのためにワイロが横行したんだ。
役人の子、ニギニギをまず覚え

他にも、蝦夷地の開発を計画したり、下総国印旛沼の干拓をおこなったりしたんだけどね。
でも、印旛沼の干拓なんて失敗さ。

重商主義で、都市部の町人や商人の文化は発展するんだけど、農民は何の対策もなく悲惨な状況だったんだ。
おまけに、天明の大飢饉で食料難になり、その上、疫病までも流行ってしまった。
浅間山も大噴火しちゃって、農民にとっては散々だ。

そうなると、当然米の値段は上がるよね。
だから、財政難だった各藩では、年貢の取立てを一層厳しくしていったんだ。
当然、「こんなのやってられるか!」って、各地で一揆が勃発。
「農村にいても生きていけないべ。おらも江戸さ行くべ」って、多くの農民が都市部へ流れ込んでいったんだ。
こんなんじゃ、農村は荒れ果ててしまうよね。

じゃぁ、江戸の町は暮らし良いのかって言えば、都市部は都市部で治安が悪いんだなぁ。
打ちこわしなどが頻繁に起っていたからね。

当然、こんな事が続いちゃったら「これも、田沼の政治が悪いんだ!」って事になるでしょ。
最終的には、老中を解任されて商人から集めたワイロも没収されたそうだ。


それで、家治の子供が亡くなったので、11代目を一橋家の徳川家斉が引き継ぐ事になったんだ。
家斉は、評判の良かった白河藩主の松平定信を老中にして、改革に取り組む事にしたのね。
松平定信は、吉宗の『享保の改革』の改革を手本にして、緊縮財政を取る事にしたんだけど。
これが、『寛政の改革

まずは、飢饉を教訓に各大名に『囲米』といって、穀物の備蓄を命令したんだ。
都市部に集まった農民には、『帰農令』をだして、農村に帰るように指示。
「ほら、ほら、資金をあたえるからお前ら百姓は、村に帰って米作りしないさい」ってものね。
棄捐令』っていって、旗本や御家人が借りた借金の利子の引き下げも命じたりもしているんだよ。

他にも『人足寄場』ってのを作って、無宿人らを石川島の寄場に集め職業訓練を始めたんだ。
これは、江戸の治安対策も兼ねたんだけどね。

学問も幕府に都合の良い『朱子学』だけにして、『国学』や『蘭学』は禁止。
もちろん、株仲間も廃止させ、特権を与える事もしなくなった。
もう、この改革は、堅苦しくて厳しいものだったらしいよ。
白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」って狂歌も詠まれた程だ。

こんな事で、完璧主義の松平定信は、庶民や大奥から嫌われちゃうんだ。
結局、松平定信の老中の地位も6年程度で終了。
思ったほどの実績も残せなかったしね。

松平定信をクビにした後は、松平信明を老中にしてるんだけど。
でも、松平信明と他の老中達は、結局、定信の政策を継続していくんだ。
まあ、新しいアイディアもなかったんだろうね。

あっ、そう、そう、この徳川家斉、なんと、40人以上の奥さんがいて50人以上の子供がいたんだと。
おかげで、子供の養育費だけでも相当なもんだったみたい。
財政が厳しい時に大変だったみたいだよ。
(家斉さん、まあ、なんとお盛んな事か・・・)

12代目は、家斉の息子の徳川家慶だ。
ただし、11代目の家斉が大御所として存在していたので、当初は思い通りの事はできなかったらしい。

そんな中、1836年に『天保の大飢饉』が起きちゃう。
極端な米不足になって、米の値段が高騰。
当然、一揆や打ちこわしが多発したんだ。
各地で、餓死者や疫病で亡くなっていく人があいついで出たんだよ。
東北では、「死者の肉を食った」って話も残っているくらい。


こんな中、商人は「これはチャンス」って事で、米を買い占めていったんだ。
そんな時、大阪町奉行の跡部良弼が、家慶就任の儀式用に米を江戸へ送ろうとしていたのね。
これに、大阪町奉行の与力の大塩平八郎が怒ったねぇ〜
「餓死者まで出てるのに何考えてんだ! お前ら人間じゃねぇ!」って、決起するんだ。
1837年の『大塩平八郎の乱』だ。

大塩平八郎は、町人や農民など総勢300人ほど引き連れて、豪商を襲ったんだ。
大阪町奉行の跡部良弼の暗殺も計画していたが、これは事前に計画が漏れて失敗。
結局、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまったけど、現役役人の反乱は、幕府に大きな衝撃を与えたんだ。

そんな中、12代目の家慶は、親父が大御所で力を振るってたので始めはおとなしくしてたけど。
その家斉が亡くなって、やっと思い通りの政治を行なえるようになったわけ。
そして、改革もできなかった水野忠成の後を引き継いだのが水野忠邦

で、水野忠邦が始めたのが、『天保の改革』ね。
でも、あんなりコレといった政策は無いんだなぁ。
江戸に集まった農民に、「農村に帰れ!」って、『人返し令』を出すとか、株仲間の解散を命じたり。
以前にやってきた事とあんまり変わらない。

それに、江戸や大坂付近の大名の領地を巻き上げる、『上知令』を出そうとしたけど猛反対さ。
そりゃ、そうだろう。
「勝手に俺の財産を巻き上げるなよ! いい加減にしろよ!」ってなるわな。
これが、原因で老中も失脚してしまうんだ。

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田沼意次の重商主義は、農村の発展になんら寄与しなかった。
そこへ米の不作が相次ぎ、飢饉をもたらす事になる。
度重なる改革も成果が出ずに、人々は都市部へ集まり農村は荒廃して行く。
そこへ、ペリーが黒船を率いてやってきた。    >>> 世の中を覆すペリー来航

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