廃藩置県で中央集権国家
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教科書には載っていない! 明治の日本

殿様は「明治」をどう生きたのか

廃藩置県で中央集権国家

戊辰戦争』で勝った明治政府は、今後の方針を発表したんだ。
明治天皇様が、日本の神々に誓った『五箇条の御誓文』がそれね。

原文は難しいから、意味だけね。
  「何でも会議を開いて、人の意見を聞いて決定しよう」
  「身分が高くても低くても心を1つにして、国を豊かにしよう」
  「役人から庶民までそれぞれの願いが叶うような国にしよう。こんな国は嫌だ。と思わない国にしよう」
  「古い慣習を捨てて、自然の原理に基づいた国にしよう」
  「広く世界から学び、天皇を基に国が栄えるように努力しよう」
(理想は高いけど・・・ 現実は・・・)

そこで、新政府は、『富国強兵』策を掲げたのね。
それは、文化の進んだ外国に、追いつき追い越すための政策。
そのためには、国を豊かにし軍隊を強くするって事にしたんだ。

だから、富国策の一環として、1872年、群馬に国営の『富岡製糸工場』を作ったのね。
日本の主な輸出品の『生糸』の増産を狙っての事だったんだ。


ところで、『戊辰戦争』には勝ったけど、明治政府にとって、まだ目障りな存在があるでしょ。
それは、各地にいる大名の藩主。
幕府側についていた大名の藩主は、『戊辰戦争』で片づけたけど、倒幕に参加した藩主が残ってるよね。
特に、薩長土肥の藩主だ。
長州の藩主なんて、「俺はいつ将軍になれるんだ?」なんて事、言ってらしい。

明治政府にとって、こんな時代錯誤の権力者はいらないし逆にジャマなだけ。
明治政府は、中央の政策が全国に浸透するように、『中央集権国家』を目指してたからね。
各藩が、勝手に政治する『地方分権』じゃ、外国との交渉もままならないでしょ。
ヘタすりゃ、植民地にされてしまう。

だけど、各藩主に「中央集権国家にしたいから藩を潰します!」なんて事も言えないわけ。
だって、各藩には主君を守る家臣たちが、まだ存在してるからね。

ヘタな事をすれば、内乱になっちまう。
内乱になれば諸外国が参加して、日本は外国の植民地になっちゃうかもしれないし。。。
日本のスキを諸外国は、虎視眈々と狙ってるからね。
日本の力って、まだ、その程度だったんだ。

そこで、明治政府は考えたね。
まず、1869年に『版籍奉還』を行った。
「藩は存続。でも、領民も領土も天皇様のものです。藩主は藩知事になってもらいます」ってお達しだ。
「そうか、今までは徳川幕府が領地を保証してくれたけど、今度は天皇様が保証してくれるんだ」
結局、領土も領民も明治政府が巻き上げるお達しなんだけど、藩主の中には勘違いした人もいたらしい。
そのせいか、あんまり混乱はなかったようだよ。

そして、その2年後の1871年、明治政府は、『廃藩置県』を実施したんだ。
「藩は廃止します。その代わり県を置きます。県の責任者は、中央で人選します。」
これには、藩主達は驚いたね。
「えぇ〜!! 話が違うじゃん! 俺は倒幕のために、ずいぶんと働いたぞ!」てね。

でも、これは、藩知事になっていた旧藩主を皇居に集め、天皇様からの命令として伝えられたんだ。
これじゃ、藩主と言えども逆らえないでしょ。
結局、無事に『廃藩置県』は実施され、中央集権国家ができあがった。

次に明治政府が行ったのでが、文明の進んだ諸外国の勉強だ。
「実際にアメリカやヨーロッパに行って、その文明を学んでこよう」と言うもの。
岩倉具視をリーダーにして諸外国に見学にいったんだ。
遣隋使や遣唐使と同じ事ね。
この『遣欧使節団』は、諸外国の進んだ文明を目の当たりにしてくる事になる。

まあ、諸外国の調査だけでなく、条約を結んでいる諸外国との友好も深める目的もあったんだけどね。
だって、井伊直弼が結んだ不平等な『修好通商条約』を見直しさせなきゃいけないでしょ。
その下準備も意味もあったわけ。
ほぼ2年間かけて、この『遣欧使節団』は、各地を回ってきたんだよ。


遣欧使節団』が出かけてる間も明治政府は次から次へ施策を打ち出していったね。
まずは、『戸籍法』の制定。
どこに誰が住んでいるのか分からないと税金もかけられないでしょ。

各区にはその責任者として、戸長・副戸長が置かれたんだ。
以前の庄屋や名主と同じようなもんね。
彼らは、戸籍管理だけじゃなく、税金の徴収やお達しの伝達、公共事業の実施など役人の仕事もしたんだよ。

次に教育ね。
国民がバカだと国は栄えないからね。
『学制』を実施。
男子も女子も6歳のなったら小学校にいって勉強する『義務教育』制度を始めたんだ。
でも、当時の国民の多くは貧しくて、子供も働き手だったから学校に通わせない親もいたんだけどね。

その次に実施したのが税金。
地租改正』って言うものね。
江戸時代は、米で税金(年貢)を納めてたけど、不作の時もあれば豊作の時もあるじゃない。
税収が一定しないと計画的な財政運営ができないから、米から現金で納税させる事にしたんだ。

税率は、収穫が基準じゃなくて、持ってる土地の評価額の3%
最初は混乱がないように自己申告にしてたんだけど、やっぱりズルするやつっているじゃん。
明治政府も目標にしてた税金が集まんなかったんで、取り立てを厳しくしちゃった。
そしたら、各地で暴動が起こっちゃってね、結局、税率を2.5%する事で落ち着いたんだ。

そして、明治政府が実施したのが、『徴兵制度』。
男子が20歳になったら、3年間、軍隊に入らなければいけないってものなんだ。

でも、一家の長や後継者は除外、免除金を払ったものも除外、なんて抜け道がいっぱいあった。
誰も軍隊なんか行きたくないから、反対運動まで起こったんだよ。
なんと、兵役を逃れる解説本まであったらしい。
まっ、明治政府も20歳以上の男子全てを賄える財源は無かったけどね。

明治村にある宇治山田郵便局舎

こうして、富国強兵のもと新しい制度や文化が入ってくれば、当然、庶民の暮らしも変わってくるよね。

洋服を着て、牛肉を食べ、レンガ作りの建物もでき、ガス灯も設置されていったんだ。
新橋−横浜の間には鉄道が通り、郵便制度も始まり、陰暦に変わり太陽暦が使われるようになったんだよ。

この時、1週間が7日に決められ、そして、日曜日が休日になったんだ。
都市部の暮らしが大きく変わった時だ。

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版籍奉還、廃藩置県と実施した明治政府は、中央集権国家を築いていく。
次は、諸外国へ追いつき追い越す富国強兵策だ。
諸外国を学びに行った遣欧使節団が留守の間も次から次へと方針を打ち出す。
だが、朝鮮政策で不和になった西郷・板垣は明治政府を飛び出した。   >>> 最後の内戦の西南戦争

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