藤原排除の院制
でも、藤原のヤロウを「どげんか、せにゃいかん!」って、思ってたのは貴族だけじゃなかったね。
天皇様もやっぱり同じように思われてたんだ。
ほんで、『御冷泉天皇』様の時。
藤原氏の娘だったお后に、子供が生まれなかったのね。
その後に天皇様になられたのが、藤原氏の影響が少ない『御三条天皇』様。
御三条天皇様は、藤原氏が「摂政」や「関白」になっても口出しできない方法を考えられた。
それが、『院政』ってもの。
天皇様になっても、さっさと辞めて、『上皇』や『法皇』になるというシステム。
要するに、スゲェー影響力を持った株主が、会社経営に口出ししてたとするでしょ。
そうすると、この株主に対等に物が言えるのは、社長ぐらいしかいないじゃない。
だけど、たとえ社長でも、この株主が義理の親父だったらなかなか逆らえないよね。
そこで、社長をさっさと辞めて、「会長になろう」ってものだ。
会長なら社長よりもっと力があるからね。
その会長にあたるのが、『上皇』。
出家して坊さんになった方が 『法皇』ね。
そして、『院』って場所で、政治を始められたんだ。
でも、この素晴らしい考えを思いつかれた御三条天皇様は、亡くなったんで実践できなかった。
後を継がれた息子の『白河上皇』様が、1086年に『院政』を始められたんだ。
これで、藤原氏は、以前のように権力を振るう事ができなくなってしまった。 (大成功!)
それでも、藤原氏は、その後もず〜っと口出ししてたんだけどね。
なんと、その口出しは、明治になるまで続いたんだ。 (すげぇー、執着心じゃない。)
でもなぁ・・・、
藤原氏から権力を奪うには、『院政』は良かったんだけど、別の問題になっちまった。
考えてもみてよ。
そりゃぁ、誰でも『上皇』や『法皇』ってトップでいたいじゃん。
だから、天皇様になってもすぐに辞めて、みんな『上皇』や『法皇』になりたがるんだよ。
天皇様のままだと、『院政』には参加できないって事もあったし・・・
天皇様もそれなりに一生懸命やってたんだよ。
でも 『上皇』や『法皇』の口出しは止まらない。
だから、多少のゴタゴタはあったんだけど・・・
そして、ついに、『後白河天皇』様が、ブチ切れたね。
相手は、『崇徳上皇』様。
お二人とも藤原氏や武士からそれぞれ味方してもらい、もう戦争さ。
『後白河天皇』様には、藤原忠通(藤原氏)・平清盛(平氏)・源義明(源氏)が応援して。
『崇徳上皇』様には、藤原頼長(藤原氏)・平忠正(平氏)・源為義(源氏)が応援して。
それぞれ、親子だったり兄弟だったり、身内の権力争いも加わって激戦だ。
結果、勝ったのは、『後白河天皇』様。
負けた『崇徳上皇』様側は、藤原頼長は討ち死に、平忠正・源為義は処刑、崇徳上皇様は讃岐へ流罪。
これが、1156年に起きた『保元の乱』なんだ。
【崇徳上皇】 最大の怨霊となった崇徳上皇。菅原道真・平将門と共に三大怨霊と言われてます。
流罪になった崇徳上皇様。
仏教を熱心に学び、経文を写本し、後白河天皇様へ送ったそうだ。
でもね、後白河天皇様は「呪いが篭った写本なんかいらんわ!」と送り返されたそうな。
これには、崇徳上皇様がブチ切れた!
「大魔王となって、この日本をメチャクチャにしてやる!!!!」って・・・
それから髪も切らず、爪も切らず、その姿は大天狗のようだったとか。
その怨念は、明治天皇様が京都市にある白峯神宮へ魂を移されるまで続いたんだって。
なんと、その期間は700年。
恐ろしいわぁ〜
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で、『保元の乱』の後の処理で、後白河天皇様もしくじったよなぁ〜。
平氏の平清盛ばかり可愛がっちゃてね。
源氏の源義明としちゃぁ、「面白くない!」わけ。
「俺が応援したから勝てたんじゃないか! それなに何だ! この扱いは・・・!!」
ってな事で、今度は、源義明がブチ切れた。
まだまだクスぶってた朝廷と、藤原氏の内輪モメも加わって、また戦争だ。
これが、1159年に起きた『平治の乱』。
普通に戦えば源氏が勝ってたんだけど、余裕をかまして油断してるから源氏が負けちゃったんだ。
この時、頼朝、義経兄弟も平氏につかまっちゃったけど。
「清盛殿、頼朝の命だけは、この母に免じて許してもらえぬか?」
「母上のお言葉なら致し方ないでしょう」
なんて会話があったかは知らないが、頼朝は清盛の義理の母の願いで助けられちゃう。
なんでも頼朝の顔が、死んだ息子に似てたそうだ。
義経の方は、スケベな平清盛が、義経の母親(常磐御前)にせまってた。
「義経の命を助けたければ、俺の愛人になれ! そうすれば義経は助けちゃる」ってね。
義経の母親は常磐御前って、スゲー美人だったんだって。
それからの平清盛は、もう、有頂天だ!
武力を背景に、『太政大臣』まで登りつめちゃう。
『太政大臣』って、今の総理大臣みたいなもんね。
ほんで、自分の一族をどしどし朝廷の要職につけちゃうんだ。
「平家にあらずんば人にあらず」 なんて、物凄い事まで言ってる。
さらに、中国の『宋』と貿易も始めちゃった。
『日宋貿易』ね。
これで、武力だけじゃ無く、経済力もつけちゃったんだ。
だけど、清盛があんまり調子にのるから、天皇様も清盛が段々と嫌になってきてね。
そりゃぁ、そうでしょう。
最近まで、ガードマンだったくせに、天皇様の命令も聞かなくなったんだから。。。
(清盛も調子に乗りすぎだ!)
ついに、後白河法皇様の息子『似仁王』に「平家を倒せ!」って命令まで出されちゃうんだ。
これに喜んだのは、もちろん源氏側。
「待ってましたぁ!!!」 てなもんよ。
なんせ、『平治の乱』以降は、田舎の片隅でヒッソリと暮らしてたからね。
頼朝も頑張っちゃうし、頼朝と別の流れの源氏、『木曽義仲』ってのも張り切っちゃう。
頼朝は、始めの戦には勝ったんだけど、石橋山の合戦でコテンパンにやられるのね。
この時、敵の『梶原景時』に見つかるけど、何故か?見逃してもらったんだ。
で、頼朝は、もう一度体制を立て直して『富士川の戦い』で勝利。
平清盛はこの時病気でね、戦いに出てなかったけど、この負け戦に怒り心頭よ。
死ぬ時に、「葬式はいらん! それより、頼朝の首を墓に供えろ!」って言ったらしい。
(よっぽど悔しかったんだろうなぁ〜)
勝った頼朝は、深追いせずに関東で体制を固めた。
あっ、そう、そう、この時、頼朝は監視役だった北条氏の娘『政子』と結婚してたのね。
北条氏も思い切った事をしたもんだよ。
監視してる罪人の頼朝と自分の娘を結婚させちゃうんだから。
一様、北条氏も平氏の一族だったんだけどね。
まあ、清盛には、あんまり大切にされてなかったらしいけど。。。
もう一人、張り切ってたのが、『木曽義仲』。
北陸の『倶利伽羅峠の戦い』で、平氏をやっつけている。
何頭もの牛の角に炎のついた松明を付けて、平家軍を撃破したらしい。
その勢いで、木曽義仲は、都まで攻め入って都から平家を追い出したんだ。
始めは、嫌な平家を都から追い出したんで、木曽義仲は都の人から拍手喝采さ。
でも、木曽義仲軍が、『金品は奪う』『女は犯す』で、強盗より始末が悪いんで人気もガタ落ち。
「平家がまだマシだった」って言われる始末さ。
で、結局、勢いを盛り返した平家にやられちゃうんだ。
最後は、『後白河法皇』様に「木曽義仲討伐の命令」まで出されて・・・
木曽義仲討伐を実行した源義経に、『宇治川の合戦』で敗れて殺されてしまうんだ。
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藤原氏排除の秘策、院政が開始される。
ところが、院政は上皇と天皇の確執を生む事になる。
ついには、藤原氏や武士団を巻き込んでの戦にまで発展。
これにより、武士の平氏と源氏が台頭する。 >>> 驕れる平家も久しからず
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