墨俣城(一夜城) (岐阜)
織田信長による美濃侵攻にあたって、1566年に木下藤吉郎が一夜城を築いたという逸話があります。
当初、佐久間信盛、柴田勝家が試みましたが失敗。
その後、木下藤吉郎が、蜂須賀小六らの川並衆の協力を得て、2〜3日で築いたと言われています。
今は、墨俣歴史資料館としてりっぱな天守が建てられていますが、本来はやぐらや柵などを配置した砦でした。
江南市の旧家に伝わる前野家古文書によれば、高やぐら5棟(2階建)・低やぐら3棟・土塁250間(約450m)
・高塀136間(約245m)・馬柵1,800間(3,240m)・堀360間(648m)
・井戸2個所・殿様御屋敷1棟・木戸2個所(大手・搦手)が造られたそうです。
今は、史実と違う鯱鉾まで備えたりっぱな天守が建っています。
なんでも、大垣城の天守を模して建てられたそうです。
なんで、お金をかけて史実と違う、ウソの天守をつくったんだろう? (意味が分からん!)
歴史に疎い方は、秀吉が天守を造ったと錯覚するかもしれないのに・・・ やぐら1棟の方がどれだけ良いか・・・
墨俣城(一夜城)探索記
岐阜市から鳥羽に向かい長良川に沿って走っていると、途中で右手に天守閣が見えてきます。
朱塗りの橋の先を右手に曲がり、ちょっと立ち寄る事に。
これまた分かりずらい駐車場。
駐車場を探して、グルグル回ったもんね。
何の事無い、ちょっと先の河川敷が駐車場だった。
歩いても戻ってきて、初めて一夜城って事が分かった。
「えっ! 墨俣城って砦じゃなかったっけぇ〜?」
「何故に天守閣があるのだ?!」
そもそも 『墨俣城』 って、木下藤吉郎が、蜂須賀小六らの川並衆や野武士を使って、山から木を切り出し加工し、筏にして運び、組み立てた砦と聞いていた。
観光のためか? 地元の見栄か? 知らないけど、史実と異なる建造物はイカンですよ。
歴史資料館内の展示模型でも砦になっているのに・・・
何故に天守を造ってしまったんだろう?
やぐら1棟でも良かったんじゃない?
馬柵なんかをちょっと並べて、高塀や木戸なんか造れば、当時を想像させるに十分だったのに・・・
残念!
お金の無駄遣いとしか考えられない。
墨俣城に関する他のサイトもいくつか読ませて頂きましたが、この点を酷評しているサイトが多いです。
まっ、気を取り直して資料館に向かって行きましょう。
資料館へ向かう橋は、『太閤出世橋』 だそうです。
(もう、なんだかなぁ〜 このネーミング)
テンション下がってるから橋の名前までウソくさい。
確かに、秀吉の出世の糸口になった墨俣城ですよ。
しかしねぇ〜、『太閤出世橋』 って・・・
いかん、何を見ても批判的に感じてしまう。
橋の正面に秀吉の像があります。
写真を取る気にもなりませんでしたね。
もう、テンション、ダダ下がり。
とりあえず、資料館内へ。
大人、200円ナリ。
展示物で、これといって興味を引くものもなかった。
一番、じぃ〜っと見たのは、砦の模型だったかな。
本来の墨俣城ってこれでしょ。
豆粒みたいな人も配置され、やぐらや馬柵など精巧に作られていました。
なぜ、これをモデルにしなかったのか残念です。
この模型だけが、墨俣城を想像させるものでした。
資料館の外には、『出世ひょうたん』 なるものが奉納されておりました。
城の裏手には、豊国神社があるので、そこの奉納物なんでしょうか?
(これも笑ちゃうぐらいウソくさい)
良く、こんな所に奉納しちゃうよな。
隣には、『顕彰碑』 なるものがあります。
『顕彰』 とは、辞書を引くと、
『隠れた善行や功績などを広く知らせること』
って事だそうです。
碑文をそのまま記載します。
《 墨俣町民長年の願望であったお城が 平成の年に一夜城跡に築城できたのは 当時の名古屋中部地方建設省
関係者と木曽川上流工事事務所長町田脩氏のご尽力により この地に認可されたものであり
その功績に甚大なる敬意を表し その事実を後世に残すためここに記す 平成六年三月 墨俣町長 》
「開いた口がふさがらない」 とはこの事だろう。
関係者一同、全員バカか?!
『顕彰碑』 まで建てて、この自己満足の輩たちは、史実を曲げている事に気づいてもいない。
いまさらながら、だんだん、腹が立ってきた!
史実と違う 『墨俣城』 なんて、行かない方が良いです! 行ってもつまらいです!
今までで、最悪の名所だった。 「行かなきゃ良かった・・・」
墨俣城(一夜城)へのアクセス&見学料
【見学料】
・大人 200円
・小学生・中学生 100円
【時間】
9:00〜17:00
休館日:月曜日
【アクセス】
JR大垣駅から名阪近鉄バス「墨俣」 徒歩5分
※ 行っても面白く無いと思いますが・・・
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